大潟村は昔、湖だった…。

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男鹿半島・大潟ジオパーク

ジオパークとは?

 ジオパークとは、地球の成り立ちを知るのに重要な地質遺産を含む自然公園のことです。「大地」を学習することができる公園を意味します。
 「ジオパーク」という名称からは、地層や地形といった、地質的な観点からのみとらえがちですが、実際は、その地域ならではの大地だけでなく、環境、自然、産業、歴史、文化、伝説など、大地の上に成り立つ自然や人間の営みが全て含まれています。人間との関わりのなかで「大地」を学習できる地点のうち、認定された地点がジオパークとなります。
 ジオパークの歴史は、2004年にユネスコ(国連教育科学文化機関)が「世界ジオパークネットワーク」を設立したことに始まります。この組織がジオパーク候補地を審査し、認定した地点が「世界ジオパーク登録地」となっています。2015年から世界ジオパークはユネスコの正式プログラムになりました。日本では、日本におけるジオパークの公式認定機関である「日本ジオパーク委員会」が、2016年10月31日現在で、国内43地域を「日本ジオパーク登録地」として認定しています。これには8地点の「世界ジオパーク登録地」を含んでいます。
 大潟村と男鹿市にまたがる「男鹿半島・大潟ジオパーク」は2011年に日本ジオパークに認定され、「半島と干拓が育む人と大地の物語」をメインテーマとし、恐竜がいた7000万年前から現在までの大地の歴史や人の暮らしを連続して見ることができるジオパークです。

その他の地域のジオパークはこちらから。

ジオパークが目指すものは?

 大地は何も語ってくれません。ジオパークの核となるのは大地に加え、その大地に根ざした「人間の活動」で、以下の活動が求められます。

  • その地域の伝統と法に基づき、「大地」の遺産を保護します。(ジオパークの登録により、新たに規制をかけるものではありません)
  • その地域において、地球科学や環境に関する教育・普及活動を行います。
  • その地域の持続可能な社会と経済の発展をめざします。
  • ジオパークネットワーク会員相互の情報交換・交流を活発化させます。

なぜ大潟村と男鹿市がジオパーク候補地に?

大潟村と男鹿市には、以下のような特徴があります。

(1)この候補地には、国・県の各種指定地域や近代化産業遺産が豊富にあります

  • 男鹿国定公園(男鹿市)
  • 地質百選・秋田県文化財「一の目潟」(男鹿市)
  • 近代化産業遺産群「船川港石組防波堤」(男鹿市)
  • 国指定特別鳥獣保護地域(大潟村)

(2)日本で「唯一」・「最大」などと形容できる資源があります

男鹿市

  • 過去5000万年間の大地の変化を知ることができる地層群。
  • 過去40万年間の大規模気候変動と大地の挙動を知ることができる地域。
  • 活発な火山活動による噴出物由来のグリーンタフ(緑色凝灰岩)発祥の地。

大潟村

  • 日本最大の潟「八郎潟」と日本最大の干拓地、干拓地にできた唯一の村「大潟村」。
  • 日本で唯一、10度単位で緯度経度が交わる「地球の十字路」の存在。

(3)この地には、以下のような重要かつ貴重な資源・資産があり、活動する人々がいます

  • 多様な地形(崖、段丘、砂丘、火山、火山湖、潟、干拓地など)
  • 大地の恵み(油田、温泉、湧泉など)
  • 遠くからの火山灰が堆積している(十和田火山、洞爺火山、白頭山(北朝鮮)など)
  • 多くの活断層
  • 八郎潟の生成と干拓の歴史
  • 災害の歴史(日本海中部地震等)
  • 豊かな自然(干拓地の湿地性里山など)
  • 独自の産業、文化、食文化、歴史遺産
  • 各地域において、民間ボランティアや各種団体が多彩に活動をしている。

大潟村のジオパークとしての独自性や魅力はどこにあるの?

 大潟村エリアは、かつて琵琶湖に次いで日本第二の広さのラグーンであった八郎潟を干拓事業により干拓し、その湖底に昭和39年に誕生しました。大潟村は、稲作中心の大規模機械化農業を実践する日本のモデル農村を目指し、昭和42年から49年までのべ5回、国により入植者が全国から募集され、営農及び生活を営むようになりました。昭和の半ばから、国により村の農業と生活の基盤が整えられ、国とともに村づくりがすすめられた自治体は、日本では大潟村以外にはありません。
 大潟村は、総延長51.5kmの干拓堤防で囲まれており、堤防を除いて全てが海抜0m以下となっています。すなわち、水の管理が大潟村の生命線であり、干拓堤防、排水路、排水機場など干拓地特有の施設があり、常に機能するよう適切に維持管理されています。干拓地内には整然と水田が広がり、一直線の道路、防風林など、他の日本の農村地域とは異なる景観が広がっています。また、村内には干拓博物館や大潟富士、干拓記念碑、干拓堤防など、干拓とその歴史が理解できる施設が整っており、大きな見所です。ガイド案内体制も充実しており、目的に応じて博物館や村内を見学することができます。
 また、大潟村の土壌はかつての八郎潟の湖底土であり、ミネラル分に富んできわめて肥沃です。大潟村ではこの土壌の影響を受け、とても美味しい農産物がとれます。村内には、腐植質に富んだ500万年前の海水由来のモール温泉もあります。
 このように大潟村では、八郎潟の歴史や干拓について学習できるとともに、八郎潟の「大地の恵み」も楽しめるエリアとなっています。ガイド案内や買い物、温泉入浴などを通して、全国から大潟村に入植した方々とのコミュニケーションも楽しめます。
 また、大潟村に隣接する男鹿市においては、過去の大地の変化や気候の変動、様々な火山活動など、日本列島の成り立ちに関わる大地の変動の証拠が男鹿半島には凝縮されています。すなわち、大潟村と男鹿市では、男鹿半島における「日本列島の成り立ち」という時間スケールから、大潟村における「人間による大地の創造」という時間スケールに至るまで、長短さまざまな時間のスケールで、大地のドラマと人々の活動を学ぶことができるのが、男鹿半島・大潟ジオパーク候補地の大きな特徴です。
 大潟村、男鹿市ともに、他の地域にはない美しい景観を有しています。そして、それぞれの地域において、特徴ある大地の恵みがあります。また、それぞれにおいて、特有の歴史、文化、産業を有しており、人間と大地との関わり方の多様性(自然、産業、歴史、文化など)を学ぶことができるのです。

大潟村ジオスポット

(1)大潟村干拓博物館

 かつて日本第2の広さの湖であった八郎潟は、オランダの技術援助のもと、国営干拓事業により広大な新生の大地に変容を遂げ、そして昭和39 年「大潟村」が誕生しました。以来、大潟村は日本の食糧生産基地としての使命を果たし、発展してきました。昭和42年の第1 次入植以来、すでに40年以上が経過し、世代交代が進んでいます。そこで大潟村では、八郎潟干拓の歴史、干拓の意義、村存立の意義、干拓技術の遺産などを後世に伝えるため、八郎潟干拓という歴史的大事業にかかわる諸資料を収集し、研究・展示する博物館を建設しました。干拓博物館では、干拓当時の記録を展示するとともに、大潟村の発展のようす、今日の農業のすがたや環境、芸術文化について、村民の協力のもと企画展示を行っています。また、都市と農村の交流拠点として、そして生涯学習の場としてさまざまな教育普及活動を行っています。また、「大潟村案内ボランティアの会」が活動しており、無料で館内や村内のガイド案内を行っています(要申込)。

大潟村干拓博物館
大潟村干拓博物館

(2)八郎潟干拓記念碑と水位標

 干陸とは、堤防で囲まれた干拓地の水をくみ出し、陸地化することです。八郎潟干拓工事は昭和32年に始まり、昭和38年に堤防と干拓地内の水をくみ出すための排水機場が完成しました。当時、7億トンと推定された水は2箇所の排水機場からくみ出され、干拓地内の水位は徐々に下がっていきました。そして翌39年9月、比較的水深が浅い八郎潟の西部を中心に、約6,000haの湖底が姿を現しました。この面積は、中央干拓地のおよそ35%に過ぎませんが、水量としてはおよそ90%が排水されていました。同年9月15日には、湖底が姿を現した地点が一般に公開され、後に大潟村の総合中心地となる場所で1,300人もの関係者の出席のもと、干陸式が行われました。式典会場の上空には、多くの報道関係機関の飛行機やヘリコプターが飛び回り、大空から干拓地にお祝いのメッセージが投下され、式典で披露されました。その一方で、湖底に誕生した大地の表面にはたくさんのシジミの貝殻がありました。訪れた多くの人たちは、その姿を複雑な思いで見つめながらも、新たな大地の誕生を祝ったのでした。
 現在、干陸式が行われた場所には「八郎潟干拓記念碑」が建立され、関係者の干拓工事への思いを知ることができます。また、その入り口にはかつての八郎潟の水面の高さを示す水位標が設けられ、八郎潟の水深を実感することができます。

八郎潟干拓記念碑
八郎潟干拓記念碑

水位標
水位標

(3)中央干拓地

 かつての八郎潟は、食糧の増産及び湖岸地域の水害防止のため、八郎潟干拓事業により昭和32年から20年、総工費852億円をかけて、八郎潟の周辺部および中央部が干拓され、陸地化されました。干拓工事で湖底に誕生した大地の面積は17,203haであり、八郎潟干拓工事は日本最大規模の農業土木工事といえます。誕生した干拓地のうち、八郎潟の中央部の15,666haの干拓地を中央干拓地と呼び、大潟村の行政区域となっています。

船越水道上空から撮影した八郎潟干拓地。中央部分が中央干拓地。
船越水道上空から撮影した八郎潟干拓地。
中央部分が中央干拓地。

大潟富士山頂から見た中央干拓地
大潟富士山頂から見た中央干拓地

(4)干拓堤防、幹線排水路、排水機場、防潮水門、農業用水取水口

 干拓地の生命線は、水の維持管理にあります。すなわち、①干拓地内に水が入るのを防ぐ51.5kmの干拓堤防、②干拓地の水を集めて導水する幹線排水路、③幹線排水路に集められた水を汲み出す2か所の排水機場、④八郎湖に海水が入るのを防ぎ、水位を一定に保つ防潮水門、⑤八郎湖等から農業用水を干拓地内に取り入れる19か所の農業用水取水口、がきわめて重要であり、これらを基幹施設と呼んでいます。基幹施設は、秋田県や大潟土地改良区などにより維持管理が行われています。

干拓堤防(正面堤防)
干拓堤防(正面堤防)

干拓堤防(西部承水路堤防)
干拓堤防(西部承水路堤防)

干拓堤防(中央干拓地堤防締切地点)
干拓堤防(中央干拓地堤防締切地点)

中央幹線排水路(大潟漕艇場付近)
中央幹線排水路(大潟漕艇場付近)

1級幹線排水路(北の橋から西方面)
1級幹線排水路(北の橋から西方面)

南部排水機場
南部排水機場

北部排水機場
北部排水機場

防潮水門
防潮水門

農業用水取水口(サイフォン方式)
農業用水取水口(サイフォン方式)

三倉鼻公園から見た干拓地。中央はサイフォン式農業用水取水口
三倉鼻公園から見た干拓地。
中央はサイフォン式農業用水取水口

(5)経緯度交会点標示塔

 北緯40度、東経140度が交わる点に建立されています。日本の陸上で、10度単位で緯線、経線が交わる地点は唯一ここだけであり、八郎潟干拓事業により「地球の十字路」が地上に出現したといえます。以前は、東京天文台場所の経度・緯度を天文観測により決定し、ここを日本経緯度原点として基準に用い、測量が行われていました(日本測地系といいます)。この測量により「地球の十字路」の位置が明らかとなり、経緯度交会点標示塔のモニュメントが建てられたのでした。

経緯度公会点標示塔
経緯度公会点標示塔

(6)大潟富士

 大潟村のほぼ中央、みゆき橋の近くに「大潟富士」という名称のとても小さな「富士山」があります。この山の高さは3,776mで、富士山の標高の1/1000となっており、さらに山頂がちょうど海抜0mとなっています。この大潟富士は、秋田県測量設計業協会の創立20周年を機に、設計費を同協会、建設費を村が負担することで平成7年に誕生した築山です。登山道も整備され、子どもたちからお年寄りまで誰もが気軽に「富士山」の登山を楽しめ、さらに山頂では、かつての八郎潟の水深を実感できるとともに、広大な中央干拓地及び幹線排水路を眺めることができます。なお、大潟富士の近くには三角点があり、その標高は−3.8mとなっています。

大潟富士
大潟富士

大潟富士山頂からの眺め
大潟富士山頂からの眺め

(7)大潟草原鳥獣保護区

 総合中心地の西側に広がる135haの鳥獣保護区で、昭和52年に設定されました。このうち、48haは特別保護地区となっており、干拓後の未開発地を有しています。保護区内には野鳥観測ステーションが設けられ、誰でも気軽にたくさんの野鳥を観測することができます。また、この鳥獣保護区では、かつて日本固有の鳥で幻の鳥と言われたオオセッカ(環境省レッドリスト絶滅危惧ⅠB類)の生息が確認されたほか、タカの一種で日本では珍しいチュウヒ(環境省レッドリスト絶滅危惧ⅠB類)の営巣が確認されています。

大潟草原鳥獣保護区 野鳥観測ステーション
大潟草原鳥獣保護区 野鳥観測ステーション

(8)大潟モール温泉

 モール温泉の「モール(Moor)」は、ドイツ語で「腐植質」を意味し、腐植質を多く含む泉質をいいます。火山活動由来の温泉と違い、腐植質は有限で全国的にみても希少価値があります。国内はもとより世界的にも非常に珍しく、秋田県では初めての温泉です。大潟モール温泉の泉源は500万年前の海水が地層水となったものです。500万年前は新生代、恐竜が滅亡し、ほ乳類が栄え、被子植物の全盛期で緑豊かな草原が地球上を覆ったと言われています。その植物がやがて腐植質となり、温泉に溶け込み、黄金色のモール温泉となりました。モール温泉の特徴として、温泉熱の人体皮下浸透度が非常に高効率で、短時間で体の芯まで温まる効果があります。また泉質は植物性で、天然保湿成分が多く含まれています。

ホテル サンルーラル大潟
ホテル サンルーラル大潟

ポルダー潟の湯
ポルダー潟の湯