大潟村は昔、湖だった…。

歴史

大潟村の発足と発展

(1) 大潟村の行政区画

 八郎潟干拓事業は昭和32年に始まりましたが、昭和34年頃から、八郎潟の湖底に将来つくられる新しい土地が、どの市町村に属するのか、多くの人たちの関心となりました。
 昭和35年、農林省内に設けられた八郎潟干拓事業企画委員会では、日本水田農業の発展のモデルとなる高い生産性と所得の農業経営を行い、農村社会のモデルにふさわしいものを中央干拓地に建設すべきであるとの中間報告を発表しました。その後、委員により干拓工事の視察等が行われ、中央干拓地には新しい1つの自治体を創設すること、及び南部・西部干拓地等の地先干拓地は、その干拓地が接する市町村に編入することを適当とする中間報告が、昭和38年に提出されました。中央干拓地に、新しい単独の自治体が誕生することが決定したのです。

(2) 地方自治法の特例

 中央干拓地に単独の自治体が誕生することについて、法令上の問題が生じました。一つの自治体が分割できることは地方自治法で定められていますが、新しく誕生した土地に新しい自治体を設けることについては当時の法令では想定されていませんでした。そこで、新しく誕生した土地に全く新しい自治体を設けることができる特別の法律の制定について、自治省で検討が行われました。昭和39年、「大規模な公有水面の埋立てに伴う村の設置に係る地方自治法等の特例に関する法律案」が閣議決定され、国会に提出されました。衆議院、参議院で可決され、昭和39年法律第106号として昭和39年6月18日に公布・施行となったのです。なお、この特例法の「埋立て」には干拓も含まれます。
この法律の主な内容は以下の通りです。この特例法の制定により、村の行政組織の基盤が整ったのです。

  1. 新しく村を設けることについては、内閣がその土地に関係する地方公共団体の意見を聞いて行うことができる。
  2. 新しくできた村は、最初は共同社会が形成されていないことも考えられるので、選挙は自治大臣が指定する日以後に行う。
  3. 村長や議員が選挙で選ばれるまでの間、村の組織と運営について次の特例を定める。
    1. 村長の仕事をする人として村長職務執行者を選ぶ。村長職務執行者は、県の知事が議会の同意を得て県職員の中から選ぶ。
    2. 議会で決めることが必要なことは、すべて県の承認が必要である。また、住民の権利や義務の面で重要なことについては、県議会の同意が必要である。
    3. 行政委員会(教育委員会、農業委員会など)の事務は、県が行う。
    4. 選挙が行われる場合、新たに移住してくる人も多いので、住民の意思を十分に反映させるため、村長や議員、行政委員の任期を短くする。

(3) 新しい村の名称

 中央干拓地に新しい村が誕生することが決定したのを受け、村の名称、村の境界、所属する郡、村が発足する日などの検討が行われました。
 村の名称は当初「八郎潟村」が考えられましたが、既に「八郎潟町」が発足していたので、県は新村の名称を一般から募集することにしました。公募は昭和39年7月に行われ、県内外から1,612通、714種もの応募がありました。
 同年7月22日に行われた選考会議では、投票による第1次選考の結果、応募案から「湖生村」「新八郎潟村」「潟中村」「大潟村」「元潟村」「新生村」「秋潟村」「八郎村」「小畑村」「新生八郎潟村」「八郎新田村」「八郎潟干拓村」「新秋田村」「日本海村」が選ばれました。それぞれの名称について提案の理由や意見が交わされた後、再び投票が行われ、「大潟村」8票、「八郎村」3票、「八郎潟干拓村」2票、そのほか1票ずつとなり、県の意見として「大潟村」とすることが決まりました。
 「大潟村」という名前の応募は全部で15通ありました。その名称の提案理由は、①かつて大潟と呼ばれていたことがあり、当時湖岸周辺の住民もその呼称を使っていたこと、②日本一の潟を名前に込めたいこと、③国内で干拓の対象となった湖でいちばん大きいこと、④八郎潟のように大きく飛躍する願いを名前に込めたいこと、などというものでした。
 同年9月10日、中央干拓地の新村「大潟村」が発足することが自治省から告示されました。この告示を受け、「大潟村」の名称を応募した15名の中から抽選が行われ、横手市の大和みよさんが当選となりました。大和さんには、9月15日に行われた干陸式・新村設置記念式において、小畑勇二郎知事から褒賞が贈られました。また、抽選にもれた14名には感謝状と記念品が贈られました。

(4) 大潟村の所属郡

周辺自治体との境界については、河川が市町村の境界になる場合には河川の中心が境界と決めていたことから、大潟村との境界も調整池、西部承水路、東部承水路の中心線を結んだところなりました。
大潟村の所属郡は南秋田郡と山本郡の両郡が編入を要望していましたが、県は隣接町村数、干陸前の湖岸線、中央干拓地を郡の境界で分割した場合の面積等について両郡を比較検討した結果、南秋田郡に編入するものとし、県議会の同意を得ました。

(5) 大潟村の発足日と村長職務執行者

 県は大潟村の発足日として昭和39年10月1日を提案していました。これを受け、政府は昭和39年8月に県と周辺市町村に対し、①中央干拓地を分割しないで新しい自治体とすること、②境界線は中央干拓地の周りの水域の中心とすること、③名称は大潟村とすること、④新村の発足を10月1日とすること、に対し意見を求めてきました。湖岸の全市町村の議会と秋田県議会はこれらに同意しましたが、その際に県議会は、①大潟村をつくるための経費は将来も国が責任をもち、不安のないようにすること、②中央干拓地に増反地を確保し、周辺農家の経営の規模を拡大し入植農家と格差をなくすこと、③堤防は将来とも国が責任をもって管理すること、などの条件をつけました。そして同年9月10日に官報に告示され、大潟村の発足日が10月1日と正式に決まったのでした。
 村長職務執行者については、中央省庁や県と結びつきがあり、新村の長にふさわしく、地方自治や営農に手腕をふるえる県の部課長クラスで選考がすすめられました。その結果、県庁内に八郎潟干拓推進事務局が設けられたときに初代局長を務め、産業労働部長、電気事業管理者、公営事業管理者を務めた嶋貫隆之助さんが選ばれ、同年9月28日の県議会で同意を得たのでした。

(6) 条例の制定と公布

 大潟村の発足にあたり、まず条例を制定することが必要でした。発足当初の村には議会がないため、特例法により県知事の承認を得て条例が制定されました。
最初に大潟村の事務所の位置を定める条例に基づき、村の事務所を定めなければなりません。しかし、村が発足した昭和39年10月1日はまだ干陸の最中であり、中央干拓地に建物はありませんでした。そこで村役場が県庁内に設けられました。職員は嶋貫隆之助村長職務執行者以下6名でした。その後、役場事務所の移転もありましたが、大潟村役場庁舎が現在の位置に完成する昭和42年11月まで、秋田市で村の事務処理が行われていました。
条例が制定されたといっても、昭和39年の村発足当初の住民は、2か所の排水機場に勤める農林省の職員とその家族6世帯14人にすぎませんでした。村税収入は住民税(村民税)と電気ガス税(現在は廃止)のみであり、これだけではとても自治体の歳出をまかなえるものではありませんでした。また、発足年の昭和39年度は大潟村に対し、国から地方交付税は交付されませんでした。大潟村に関わる費用は全て県から支弁され、村民税等は全て県が徴収していました。昭和39年度の一般会計の決算は、歳入・歳出ともに769万3千円であり、全国の自治体のなかで最小の規模でした。

(7) 八郎潟新農村建設事業団の発足

 湖底に誕生した広大な土地に新しい農村を建設するためには、農地や道路、住宅の整備など、さまざまな事業を実施する必要があります。その際、誰が主体となり、どのように計画を立て整備していくのかが大きな課題でした。
八郎潟干拓地の場合は、中央干拓地の面積が15000ha以上もあり、今まで国が行った干拓事業とは比較にならないほど大規模なものでした。また、中央干拓地への入植予定もかなりの数にのぼり、将来の人口も多くなると当時は予想されていました。さらに、入植者が入植して営農を始めるためには、あらかじめ農地や公共施設、農家住宅などを計画的に整備しておく必要がありました。入植に備えての農地整備や公共施設整備の事業量はきわめて膨大であり、巨額の費用がかかるものでした。
 発足間もない大潟村が単独で、これらの整備を進めるのは難しいものでした。そこで、新農村建設に関わる広範囲の様々な事業について、政府の責任と出資により、事業実施を管理し統一的に実施できる組織として、昭和40年度に「八郎潟新農村建設事業団」が設立されたのでした。八郎潟新農村建設事業団の具体的な業務内容は次のとおりです。

  1. 大潟村内の農地や宅地などの整備
  2. 入植者住宅及び農業用共同利用施設(農産物感想貯蔵施設・機会格納庫など)・役場庁舎・小中学校・街路などの公共施設の整備
  3. 事業団が整備した土地や施設のうち、事業団が所有するものの災害復旧
  4. 事業団が整備した公共施設の譲渡、及び入植者住宅や農業用共同利用施設の譲渡や貸付、管理
  5. 事業団が干拓予定地の配分を受けて取得した土地の譲渡
  6. トラクターやコンバインなどの大型農業機械の譲渡及び貸付
  7. 国または地方公共団体の委託を受けて行う入植者の指導訓練、営農試験、営農指導、国営干拓工事及び土地改良財産の管理

事業団の看板をかける松岡理事長。 (大潟村干拓博物館蔵)
事業団の看板をかける松岡理事長。(大潟村干拓博物館蔵)

(8) 圃場の区画

 八郎潟中央干拓地における営農計画は、昭和34年以降、八郎潟干拓事業企画委員会によって検討が重ねられ、その基本方針は、入植者を募集して入植訓練を行い、水稲を中心作物とし、大型農業機械を用いる営農体系でした。
 入植後は、大型トラクター3台、大型コンバイン1台の組み合わせを1セットとし、約60haの圃場を1単位とし、1戸あたり10ha、6戸の協業組織で営農を行う経営が計画され、圃場の大きさや配列が検討されました。その結果、60haの基本単位の圃場の長辺は1,000m、短辺は600mとし、短辺を4等分し、150mごとに小排水路と小用水路及び幅3mの農道を交互に配置し、圃場ごとに用水・排水が調節できるように計画されました。すなわち、長辺1,000m・短辺150mのきわめて大きな圃場を4枚造成し、この面積で協業経営を行うことが検討されていました。4枚の大きな圃場は畦で12等分され、こうして整えられた圃場の面積は1枚あたりおおむね90m×140m≒1.25haとなり、後に入植者は1人あたり1.25ha×8枚=10haの配分を受けることになったのでした。当時、他の地域での圃場整備は1枚あたり0.3haの規模で実施されており、大潟村の田1枚あたり1.25haの圃場面積は、当時としてはきわめて大きいものでした。

大潟村の標準圃場図。
大潟村の標準圃場図。

(9) 圃場の造成

 圃場の造成は、圃場の地表水及び地下水を集水して支線排水路へ流すために小排水路を掘削し、農地の表面の排水・乾燥を進めた後、圃場の表面をブルドーザーで±15cm程度に平らにする工事が行われました。その後、圃場に暗渠(あんきょ)排水管の埋設が行われました。暗渠排水とは、土の中に穴のあいたパイプを埋設し、土壌中の水を排水することです。暗渠管の埋設工事にはドレーンマスターという機械が活躍しました。こうして圃場の乾燥が一層促進されました。暗渠の埋設工事を終えた圃場は1年間乾燥させ、±5cmをめざして水平になるよう整地が行われました。この作業はひとつの圃場にたくさんの超湿地ブルドーザーが一度に投入されました。
 八郎潟は海水が混じる汽水湖でしたので、八郎潟の湖底土であるヘドロ土壌には海水由来の塩分が多く含まれていました。ヘドロ土壌は土壌が乾燥するにつれて酸性化します。そこで圃場の整地工事が行われた後、ヘドロ土壌の酸性を改良するため、石灰が散布されました。また、10cmの作土を確保するため、ディスクハローにより土壌表面を細かく砕き、石灰を混ぜ合わせる作業が行われました。こうして中央干拓地の土壌は改良され、現在までのところ作物に酸性の障害は出ていません。
 農道は大型農業機械が圃場にスムーズに入れるように、当初から道路幅3mの砕石舗装とされました。小排水路は農道の隣に平行して設けられ、農道と小用水路が一体となって整備されました。

ドレーンマスターによる暗渠排水管埋設工事の様子。(大潟村干拓博物館蔵)
ドレーンマスターによる暗渠排水管埋設
工事の様子。(大潟村干拓博物館蔵)

ライムソワーによる石灰散布の様子。(大潟村干拓博物館蔵)
ライムソワーによる石灰散布の様子。
(大潟村干拓博物館蔵)

超湿地ブルドーザーによる整地作業の様子。(大潟村干拓博物館蔵)
超湿地ブルドーザーによる整地作業の様子。(大潟村干拓博物館蔵)

(10) 農業用水の取水

 中央干拓地で必要な農業用水の水源は、調整池・東部承水路・西部承水路です。農業用水を取水するために、昭和40年度以降、調整池・東部承水路側に12か所、西部承水路側に7か所、計19か所に取水施設の設置工事が行われました。
 中央干拓地は周りの水面よりも低いので、調整池などから農業用水の自然取水が可能でした。しかし取水の方法については、軟弱地盤に建設された堤防もあることから、堤防の強度維持を第一に検討されました。その結果、調整池及び東部承水路からの12か所の取水については、堤防の劣化を防ぐため堤防をまたぐように取水パイプを設置する「サイフォン方式」による取水施設が設置されたのでした。
 サイフォン方式とは、隙間のない管を用い、水を調整池・承水路から圃場まで、途中水面よりも高い堤防の上を通って用水を導く装置です。中央干拓地側に真空ポンプが設けられており、取水する際に取水管の中を真空ポンプで真空にし、水を標高が低い干拓地側へ移動させるしくみです。八郎潟干拓地特有の取水手法といえます。
 西部承水路の水位は常に一定に保たれており、西部承水路側の堤防は安定している砂地盤上に築かれていることから、西部承水路からの農業用水の取水については、堤防の中に管を設置し、取水ゲートを設けて取水を調節する「暗きょ方式」による設備が7か所に建設されました。
 取水した農業用水を、中央干拓地の農地の隅々まで行き渡らせるため、取水設備に接続した幹線用水路が建設されました。その総延長は、94.9kmにもなりました。

農業用水取水施設(サイフォン方式)の設置工事。 (大潟村干拓博物館蔵)
農業用水取水施設(サイフォン方式)の設置工事。(大潟村干拓博物館蔵)

(11)集落の整備計画

 現在の大潟村の集落地は690haであり、安定した砂地盤である中央干拓地の西部に位置しています。ここに決定するまで、8集落案や4集落案などが検討されました。建設コストや集落設置後の村の財政負担、通学や買い物など、入植者の生活の影響などが検討された結果、最終的に現在の1集落案に落ち着いたのです。
大潟村の集落は、日本都市計画学会により検討が重ねられ、居住施設区、農産施設区、保健体育施設区、環境衛生施設区の4つの区域が設けられました。そして事業団はそれぞれの区域において、入植者の入植と営農活動に間に合うように年次計画をたて、道路や上下水道、防災林、宅地造成、公共施設、農業関連施設の整備などの生活基盤工事を行ったのでした。
 大潟村の集落の特徴は、生活の場と営農活動の場を完全に分離していることにあります。すなわち、生活の場を総合中心地の中央に、営農活動の場である機械格納庫や農産物乾燥貯蔵施設を生活の場の東側と南側に設けました。そして、圃場へは自動車で通うこととされたのでした。
 集落の中で、生活の場にも大きな特徴があります。中央に南北に1.6km、幅200mのセンターベルトといわれる公共施設地帯(現在の大潟村字中央)を設け、役場や学校、農協、商店、郵便局、診療所などを集中して配置しました。そして村民の居住区として、センターベルトの西側に西1〜3丁目、東側に東2・3丁目の計5住区を設けられました。

センターベルトに配置された役場、公民館、農協。 (大潟村干拓博物館蔵)
センターベルトに配置された役場、
公民館、農協。(大潟村干拓博物館蔵)

第1次入植者の住区(現在の西2丁目)。 (大潟村干拓博物館蔵)
第1次入植者の住区(現在の西2丁目)。
(大潟村干拓博物館蔵)

(12) 八郎潟新農村建設事業団による集落整備

 大潟村は昭和39年10月に誕生しましたが、当時は行政区画が設けられ、行政の事務を行う組織が設立されただけであり、役場、公民館、学校、病院といった公共施設はありませんでした。
 公共施設はその自治体が、自主財源や起債、国や県などの補助を受けて整備することになっています。でも大潟村は全く新しい土地に誕生したうえ、昭和41年には第1次入植者が募集され 翌42年に入村することになっていたので、短期間の間に住民が大潟村で生活をする上で必要な公共施設を整えておく必要がありました。しかし財源のない大潟村が、単独で公共施設を整備することは不可能でした。そこで国が村に代わって公共施設の整備を進めたのでした。
 公共施設の整備工事は、八郎潟新農村建設事業団が一括して行いました。公共施設は、集落地の中央のセンターベルト地帯(南北1.6km、東西200m、現在の字中央)に集中的に配置されました。本来であれば入植前に全ての公共施設を整備できれば良いのですが、予算枠と施工能力の関係上、使用度の高い施設から優先して建設されました。未整備の施設の行政サービスは当初、既整備の施設に同居するなどして行われました。こうして整備された主な公共施設と完成年度は次の通りであり、完成後に入植指導訓練所を除いて大潟村に譲渡されました。

(13) 役場庁舎と公民館

 大潟村役場庁舎は、センターベルト地帯の中央部に昭和42年12月に完成しました。当時は村民向けの公共施設は役場庁舎以外になく、五城目警察署大潟村警察官連絡所が役場庁舎内に昭和43年3月に開設され、警察官1名が配置されました。また入植者の子の保育のために保育所が昭和43年4月に設けられ、2〜5歳児27名が入所し、保母2名で保育が行われました。そのうえ郵便局も役場庁舎に入っていました。このように、当時は役場に様々な機能をもつ公共施設が「雑居」している状態であり、これは各施設が整備されるまで続きました。
 また議場については別棟とされ、第5次入植者の入植終了後、初めての村の村長・村議期議員選挙が行われる昭和51年9月を前に、昭和50年12月に整備されたのでした。
 大潟村公民館は秋田農業博覧会が開催された昭和44年に、役場庁舎の北側に建設されました。農業博覧会では高い位置から干拓地の様子を眺めてもらおうと、秋田県により6階建ての展望塔が併設されたのでした。公民館の1階には干拓事業に関する展示室が設けられており、大潟村を訪れた多くの方々が展示を見学し、そして展望塔に足を運び、広い干拓地を一望していったのでした。また公民館は、研修や各種サークル・団体の活動のために利用するだけでなく、冠婚葬祭の場としても使われました。

大潟村役場は昭和42年度に完成しました。 (大潟村干拓博物館蔵)
大潟村役場は昭和42年度に完成しました。
(大潟村干拓博物館蔵)

展望塔が併設された大潟村公民館。 (大潟村干拓博物館蔵)
展望塔が併設された大潟村公民館。
(大潟村干拓博物館蔵)

(14) 幼稚園・小学校・中学校

 第1次入植者が入村した昭和42年11月、まだ大潟村には小学校・中学校がありませんでした。入植者の子どもたちは、総合中心地から最も近い琴浜村(旧若美町、現男鹿市)の野石小学校と潟西中学校に入学し、スクールバスで通学していました。昭和43年以降も順次入植が行われる計画であったので、大潟村の児童・生徒数が大幅に増えることから、大潟村に小学校と中学校を建設することになりました。
 大潟小学校は昭和43年4月から12クラス分の校舎の建設が始まり、同年12月に鉄筋コンクリート2階建ての校舎が完成しました。その際、第2次入植者の入村にあわせるため、校舎の完成に先だって同年10月に大潟村立学校設置条例が制定され、同年11月1日に大潟小学校と大潟中学校が開校したのでした。しかし、中学校の校舎はまだ建設が始まっておらず、小学校の校舎のうち6クラスを小学校、3クラスを中学校、残り3クラスを幼稚園が共同利用することとされました。
 第4次入植者数が決まった昭和45年、小学校に隣接して大潟中学校の建設が始まりました。完成後も引き続き小学校と中学校の校舎を、幼稚園・小学校・中学校が共同利用することとされ、これは昭和47年の小学校に隣接した幼稚園園舎の完成まで続きました。
 こうして、幼稚園・小学校・中学校が連絡通路で結ばれた校舎が完成しました。昭和43年の開校当初は1学年十数名からのスタートでしたが、入植により毎年児童・生徒数が増え、活気がある学校になっていったのでした。

完成した小学校(左)と、隣接して建設中の中学校(右)。 (大潟村干拓博物館蔵)
完成した小学校(左)と、隣接して建設中の中学校(右)。
(大潟村干拓博物館蔵)

(15) 入植者住宅

 大潟村への入植が始まる前に、入植者が暮らす農家住宅を整備しておかなければなりませんでした。整備するにあたり、1戸あたりの宅地面積は500 m2、5人家族の場合の住宅面積を1戸あたり70 m2とされました。住宅の構造は、柔らかい地盤上での建築と火災時の強風による延焼防止が考慮され、頑丈な基礎をもつコンクリートブロック造の耐震耐火構造とされました。また、平坦な大地に変化をもたらし、かつ雪の落下を容易にするため、2階建ての場合は屋根を三角屋根とし、住区ごとに赤・黄・青のいずれかの色を採用することとなりました。そして昭和42年から49年までに、のべ580戸の農家住宅が建設されました。
 完成した住宅の2階建ての場合の主な間取りは、1階が居間・台所、6畳和室が2室、浴室、洗面所、トイレでした。2階は増築スペースであり、入植者が自分で整備する空間でした。
 このような形で整備された農家住宅でしたが、実際に入居してみると、親戚が来ても泊まる部屋がない、車庫がない、家族構成が変わったなどの理由で使いにくくなり、入植後数年の間にほとんどの農家で増築が行われました。また、宅地面積も500 m2では狭いとの意見が多く出され、第3次入植者の住宅からは700 m2に拡大されました。
 大潟村の特徴であった三角屋根の住宅ですが、現在では改築が進み、入植当時のままに残っている住宅はほとんどありません。しかし、三角屋根に愛着をもち、三角屋根を生かしつつ増改築を行った方も多く、その名残はまだ随所に見ることができます。

建設中の農家住宅。 (大潟村干拓博物館蔵)
建設中の農家住宅。(大潟村干拓博物館蔵)