大潟村は昔、湖だった…。

歴史

干拓前の八郎潟

(1) 干拓前の八郎潟

 干拓前の八郎潟は面積がおよそ22,000ha、当時日本で琵琶湖に次いで二番目に大きな湖であり、「琴の湖」とも呼ばれていました。船越水道で日本海とつながっていた汽水湖で、最深部でも4〜5mと非常に浅く、湖底は平坦な湖で、地元では「潟」と呼ばれていました。
また、干拓前の八郎潟は漁業資源の宝庫であり、大正11年には約3000トンの水揚げがあったといわれています。そのうち、ワカサギやハゼ、シラウオなどは佃煮等の加工用として奨励されていました。湖面が凍る冬季にも、漁民は厚い氷に穴をあけ、氷の下で網を広げて魚を採る「氷下漁業」が行われていました。
 さらに、浅い八郎潟は湖底まで日光が届くため、藻類がきわめて豊富でした。これらは地元では「モク」と呼ばれ、田畑の肥料としてだけでなく、布団の綿の代わり、椅子の芯や掃除布の代用としたり、落とし紙として使われており、日常生活の中で欠かすことのできないものでした。

【干拓前の八郎潟のすがた】

面積
220.4km2(東西約12km、南北約27km)
湖岸線
82km
水深
最大4.7m、平均3m

干拓前の八郎潟。 (大潟村干拓博物館蔵)
干拓前の八郎潟。(大潟村干拓博物館蔵)

(2)八郎潟の氷下漁業

八郎潟では、鎌倉時代からすでに漁業が行われていましたが、湖が凍る冬の間は漁業ができませんでした。久保田(現在の秋田市)の商人だった高桑屋与四郎は、諏訪湖(長野県)で、氷の下に網を広げ、それを引いて魚をつかまえる漁法が行われていることを知り、諏訪湖に行って技術を学びました。これが八郎潟に伝えられ、氷下漁業が始まりました。寛政6年(1794年)のことです。その後、氷下漁業は盛んになり、明治時代の末頃には90統(統は網を数える単位)以上あったと言われています。
氷下漁業は、八郎潟全体で、特に1月中旬から2月中旬の氷が硬い時期に行われていました。八郎潟では冬は西からの風が吹き、氷が湖の東よりに集まるため、湖の東部で特に盛んに行われていました。

昭和30年頃の氷下漁業の様子。 (三浦金治郎撮影、大潟村干拓博物館蔵)
昭和30年頃の氷下漁業の様子。
(三浦金治郎撮影、大潟村干拓博物館蔵)

昭和30年頃の氷下漁業の様子。 (三浦金治郎撮影、大潟村干拓博物館蔵)

(3)八郎潟と干拓

八郎潟は非常に浅い湖であったことから、湖底を水田にするなど、八郎潟を開発したいという願望は古くからあったと思われます。明治4年に権令(ごんれい、後の官選知事)となった島義勇(しま よしたけ)は翌年に八郎潟開発計画を発表しましたが、実現に至りませんでした。
国家プロジェクトとしての干拓工事計画で最も古いものは、当時の農商務省技師であった可知貫一氏により大正12年にまとめられた「秋田県八郎潟土地利用計画」です。この干拓案の発端は、大正7年に全国各地で起きた米騒動にあります。米の需要に供給が追いつかない状態でしたので、国は八郎潟を干拓し、農地を造成し、そして米を増産しようと考えたのです。実際に可知氏は、大正11年の5月から9月まで八郎潟を訪れ、実地調査を行っています。
「可知案」と呼ばれるこの干拓工事計画の概要は、①当時の湖岸に沿って承水路を設け、湖への流入水を船越水道を通して直接日本海に排水すること、②中央に残存湖を残し、その周囲に干拓地を造成すること、③干拓地内に排水機場(干拓地内の排水を行うためのポンプ場)を設け排水すること、でした。工事費用は当時の金額で1,850万円、工事期間は15年、干拓面積は約12,000haとし、干拓後は1,900戸の入植を想定したものでした。驚きなのは、この計画書には残存湖や承水路を設けること、そして排水機場による排水システムを設けることが具体的に明記されているのです。すなわち、「可知案」は国家プロジェクトとして最初の八郎潟干拓工事計画であったばかりではなく、現在の八郎潟干拓地の水管理の骨子が大正時代にすでに示されている点において、歴史上、非常に意義のある計画書だと考えられます。
「可知案」は実現に至りませんでした。しかし、この計画の骨子は誰もが注目するところとなり、後に金森誠之や師岡政夫、狩野徳太郎らの干拓計画、そしてヤンセン教授の干拓計画に引き継がれていったのです。

可知案計画略図。 (大潟村干拓博物館蔵)
可知案計画略図。(大潟村干拓博物館蔵)