大潟村は昔、湖だった…。

歴史

入植と営農

(1) 入植者の募集

 入植とは、人が切り開いた土地に入り、生活を営むことをいいます。八郎潟中央干拓地への入植者の募集は、国により昭和41年から昭和49年までの間に5回行われました。
 八郎潟中央干拓地の建設の目的は「ほかの地域の模範になるような新農村を建設する」ことでした。将来の日本の農業のモデルとなるよう、農業生産性と所得水準が高い農業経営ができる人を選ぶ必要がありました。そこで国は、入植時の年齢が20歳以上40歳未満(特に体が丈夫で営農の経験がある人は45歳未満)を条件として全国から入植希望者を募集し、選抜試験を行いました。合格者に対しては営農等に必要な訓練を一定期間行ったうえで入植してもらうことにしました。このような形での、国の全国公募による入植事業は八郎潟中央干拓地が初めてでした。
 多くの人たちに応募してもらうため、農林省は「八郎潟中央干拓地入植のしおり」をつくり、全ての市町村に配ったほか、入植事業の説明会を実施しました。また、地域によっては新聞や雑誌などに入植事業の広告が出されました。

全市町村に配布された「八郎潟干拓地入植のしおり」。 (大潟村干拓博物館蔵)
【図】全市町村に配布された「八郎潟干拓地入植のしおり」。
(大潟村干拓博物館蔵)

(2) 入植者の選定

 入植希望者からの応募書類が届けられた各地方農政局は、以下に定める選定基準に基づき書類審査・筆記試験・面接試験を行い、審査委員会を開いて入植者選定の審査を行いました。

  1. 八郎潟中央干拓地に新しい農村を建設する意義を十分に理解している人。
  2. 八郎潟新農村建設事業団の計画に沿って、自立経営および生産性と所得水準の高い協業経営を行う意欲がある人。
  3. 入植に先だって行われる1年間の訓練により、新しい農業経営に必要な知識と技術を身につけることができる人。
  4. 入植する時の年齢が20歳以上40歳未満であること。(ただし、体が丈夫で営農経験が十分にある人は45歳未満でもよい)
  5. 営農をする十分な体力があること。
  6. 入植するときに、営農する労働力として1.8人以上(※)を有していること。
  7. 入植後に営農を行うにあたり、水の利用や作付け協定、農業機械の共同使用などにおいて協調できること。
  8. 資金として、1年間の入植訓練期間の生活及び入植初年目の秋までの営農と生活に必要な分を用意できること。

 書類審査、筆記試験、面接試験の結果を総合判定し、地方農政局ごとに候補者が選定されました。そして農林省農地局長と協議が行われ、秋田県知事の意見を聴いたあとに合格者が選ばれたのでした。入植年次ごとの応募者数と合格者数は、下表のとおりです。
※夫婦で営農することを想定していますが、当時女性は0.8人分の労働力としてみなされていました。

表1 年次別の応募者数と入植者数

回次 第1次 第2次 第3次 第4次 第5次 合計
募集年次(年) 昭和41年 昭和42年 昭和43年 昭和44年 昭和49年
入植年次(年) 昭和42年 昭和43年 昭和44年 昭和45年 昭和49年
応募者数(人) 615 281 309 389 869 2,463
入植者数(人) 56 86 175 143 120 580
倍率(倍) 11.0 3.3 1.8 2.7 7.2 4.2

(3) 入植の決意

八郎潟干拓地への入植は大きな決心が必要でした。応募広告や入植のしおりを眺めて悩んだり、応募前に八郎潟干拓地を訪れたり、すでに入植した人を訪ねてお話を聞いたりして、入植を決意した人もいました。大潟村の入植者の全てに、それぞれの入植のドラマがあります。
5回の入植試験の平均倍率は4.2倍でした。応募者の中には試験に落ちて翌年再挑戦する人や、入植配分予定地の土壌の条件や競争倍率を考慮して応募する人、ふるさとを引き払って秋田に家族で移住し、入植に備える人など、様々な応募者がいました。そして入植の動機も「冷害のない地域で稲作農業をしたい」「水害のない地域で稲作をしたい」「専業農家になりたい」「子どもが継ぎたくなるような農業をしたい」「大規模な農業をしたい」など、様々でした。
 合格者に対しては、共同生活による1年間の訓練(第5次入植は7か月間)が義務づけられていました。そこで八郎潟新農村建設事業団は、入植者の訓練施設「入植指導訓練所」を中央干拓地に建設しました。訓練所には講義棟や宿泊棟のほか、整備工場やカントリーエレベーターなどの訓練に必要な施設が整備されました。訓練期間中、入植訓練生はふるさとを離れ、入植訓練所で集団生活を送ったのでした。

入植指導訓練所。 (大潟村干拓博物館蔵)
入植指導訓練所。
(大潟村干拓博物館蔵)

(4) 入植訓練の内容

 入植訓練の内容は農業機械、栽培、経営、一般教養に分かれており、様々な講義とあわせて実験や実習が行われる形で進められました。11月から翌年3月までの冬期は主に、講義を中心に農業機械の操作や整備に関する実習が行われ、4月から11月は様々な科目の講義を受けつつ、農場での栽培実習が行われました。訓練生は1年間の訓練計画に従い訓練を受けることが義務づけられ、修了には40単位以上を習得することが必要でした。単位の取得には各科目とも2/3以上出席しなければならず、また科目ごとに試験やレポートが課され、60%以上の成果をあげなければなりませんでした。

農用トラクター実習の様子。 (大潟村干拓博物館蔵)
農用トラクター実習の様子。
(大潟村干拓博物館蔵)

(5) 入植訓練「直播き栽培」

 入植訓練が始まった昭和40年代の前半、まだ田植機は発売されておらず、田植えは手で行われていました。しかし大潟村のように1戸あたり10haの水田面積がある場合、労働力が足りません。そこで考え出されたのが、水田に直接種もみをまいて育てる「直播き栽培」でした。直播き栽培も、水を張る前の水田にドリルシーダーという機械で種もみをまき、発芽してから水を入れる「乾田直播き」と、すでに水を張った水田にヘリコプターで直接種もみを播く「湛水直播き」の2通りの方法がありました。
 入植訓練の中心は直播き栽培の農場実習であり、乾田直まき栽培や湛水直播き栽培の実習をしながら、入植後の営農に必要な様々な技術を習得したのでした。
第1次、第2次入植者は直まき栽培を学んで入植しましたが、実際の直播き栽培は生育が悪いものでした。そのため、第3次の入植訓練生からは直まき栽培の訓練だけでなく、機械を使った移植栽培の訓練も行われるようになりました。

ヘリコプターで種もみをまく直まき栽培の訓練が行われました。 (大潟村干拓博物館蔵)
ヘリコプターで種もみをまく直まき栽培の訓練が行われました。
(大潟村干拓博物館蔵)

(6) 訓練所での共同生活

入植訓練は11月から翌年10月までの1年間(第5次入植訓練生は7か月)行われ、朝6時30分の起床から夜10時30分の消灯まで、訓練日課に基づいて規則正しい訓練生活を送りました。平日は毎日、朝に朝礼や体操が行われ、午前3時間・午後4時間(1時間あたり50分)の授業が行われました。
 寄宿舎では訓練生により自治会が組織され、自治会により様々な取り決めがなされました。部屋割りは、入植者どうしの相互理解や協調性を高めるため、年齢や出身地などを考慮して行われました。訓練所に入所してからは盛んに交歓会が開催されました。お国自慢などが行われ大変盛り上がり、訓練生どうしの有益な情報交換の場となったようです。
 訓練生活の食事は栄養士の指導のもと、3食が提供されました。多いときで179名分(第3次入植)の訓練生の食事を賄うのはとても大変でしたが、ご飯と味噌汁だけは十分に食べさせたいとの配慮から献立が決められ、食事は好評だったようです。なお、味噌汁には油揚げがいつも入っていたようです。
 日常の授業や実習の間には、旅行や運動会、餅つきなどのレクリエーション行事が行われました。また、訓練生により様々な同好会も組織され、楽しみのひとつになっていました。

訓練所食堂での昼食の様子。 (大潟村干拓博物館蔵)
訓練所食堂での昼食の様子。
(大潟村干拓博物館蔵)

運動会も行われました。
運動会も行われました。

(7) 入植者への土地の配分

農地整備が完了した圃場は、入植訓練終了時に入植者に配分されることになっていました。入植訓練生が最も気になっていたことは、どの農地が自分に配分されるのかでした。
第1次入植から第4次入植までは水稲単作で、グループを組織した協業経営による営農が計画されていました。入植者には1人あたりおよそ10ha、6名の協業グループごとにおよそ60haの圃場を基本単位として配分されました。しかし圃場の位置や農地の整備方法の関係から、圃場の面積や形状は必ずしも同じではなく、入植者1人への配分面積はおよそ9~11haと差がありました。
農地の配分は全て抽選により決定されました。抽選の時期は入植年次により異なりますが、どの場合も福引きの際に使われる回転式の抽選器が用いられました。「運命の抽選器」といわれ、抽選の結果についての異議申し立てはいっさい認められませんでした。配分が決定すると、農林大臣から一人一人に配分通知書が交付されたのでした。
訓練が終了すると、修了証書が授与されました。入植訓練生は修了証書を手にふるさとに帰り、家族に報告し、そして大潟村への引っ越しの準備を始めたのでした。

「運命の抽選器」による土地配分の抽選の様子。
「運命の抽選器」による土地配分の抽選の様子。

(8) 入植後の営農1「農場開き」

 八郎潟干拓地における営農は、第1次入植者により昭和43年の春から始まりました。同年4月9日、総合中心地から農場までトラクターによりパレードが行われ、農場で農場開きの式典が挙行されました。
昭和39年の干陸からまだ3年半しか経過していませんでした。圃場の乾燥が十分に進んでおらず、土地はとてもやわらかい状態でした。第1次入植者にとっては、このような田んぼで農業機械が走行できるのか、水稲の栽培ができるのかという不安を持ちながらの営農のスタートでした。
 そのため八郎潟新農村建設事業団では、現実の圃場の条件に対応した営農指導を行いました。条件が良い圃場では種もみを直接田んぼにまく直播栽培を行うこととし、一部は苗を栽培して田植えを行うこととしたのです。また、圃場の条件が悪い一部の田んぼは休ませ、1年をかけて乾燥を促し、改善する方法がとられたのでした。このとき栽培された水稲の品種は、当時の秋田県の奨励品種であった早生種のレイメイとヨネシロでした。

大潟村の総合中心地から圃場までトラクターでパレードが行われました。 (大潟村干拓博物館蔵)
大潟村の総合中心地から圃場まで
トラクターでパレードが行われました。
(大潟村干拓博物館蔵)

圃場では農場開きの式典が行われ、営農の成功を祈念して神事が行われました。 (大潟村干拓博物館蔵)
圃場では農場開きの式典が行われ、
営農の成功を祈念して神事が行われました。
(大潟村干拓博物館蔵)

(9) 入植後の営農2「直播き栽培の失敗」

 大潟村で行われた直播き栽培は、耕起・整地した後に水を張り、ヘリコプターを用いて直接種もみを空から播く湛水直播きの方法と、耕起・整地した後にドリルシーダーで種もみを播き、発芽後に湛水する乾田直播きの2つの方法がありました。どちらの手法も機械を用いて直接田んぼに種もみを播く方法であり、田植えの苦労から解放する、まさに日本農業のモデルとなる、近代的な営農の方法でした。
 期待された直播き栽培は、暴風雨や低温などの天候不順の日々が続き、発芽は悪いものでした。キジバトやカモにより種もみや発芽直後の稲が荒らされたこともありました。田んぼが広いため水を張ると波がたち、田んぼの土が表面に浮いてしまい、播いた種もみが土の中に埋没し、発芽しないケースもありました。苗腐敗病が広がった田んぼもありました。このように、八郎潟干拓地における最初の直まき栽培の初期生育はきわめて悪く、このままでは秋の収穫に大きな影響を及ぼすことが予想されました。

ヘリコプターからの直播きが行われました。 (大潟村干拓博物館蔵)
ヘリコプターからの直播きが行われました。
(大潟村干拓博物館蔵)

(10) 入植後の営農3「田植えによる改植」

そこで事業団では、入植者に対し、生育の悪い田んぼでは手植えによる改植を行うよう営農指導を行いました。
改植をするといっても、苗の確保がとても大変でした。田植えを終えた後の余った苗の提供者を求め、入植者はもとより事業団の職員も東奔西走したのでした。それでも苗の確保は容易ではなく、周辺市町村はもとより県内全域を走り回っても足りず、遠くは青森県や岩手県にまで苗を求めに行ったのでした。集めた苗は生育の状況も品種もばらばらで、中には枯れかけている苗もありましたが、それでも集めた苗で手植えが行われました。大潟村の田んぼは面積が広いため、入植者一家が総出でも手植えをするには全く足りず、周辺の市町村の多くの人たちに田植えを手伝ってもらい、ようやく植えることができたのでした。第1次入植者が営農を始めた昭和43年では、改植された田んぼの面積は約100haにもなりました。

(11) 入植後の営農4 ウキヤガラ

 ヘリコプターで種もみを播いて芽が出るまでの間、ウキヤガラやケイヌビエという雑草が芽を出しました。どちらも田んぼや湿地に広く見られる雑草でした。特にウキヤガラは多年生で、太くて丈夫な地下茎があるので上部を刈っても生き残り、春になると再び芽を出すとてもやっかいな植物でした。播いた籾の発芽と時期を同じくしてウキヤガラの芽が出たため、発芽に影響を与えるということで除草剤が使えず、田んぼにたくさんはびこるようになったのです。ウキヤガラ退治には地下茎を取るしか特効薬がなく、入植者はその後何年もの間ウキヤガラと格闘したのでした。

(12) 入植後の営農5「大型コンバインによる収穫」

 昭和43年の秋、第1次入植者が初めての収穫を迎えました。収穫は全て大型のコンバインで行われました。当時は現在使われている自脱式コンバインではなく、アメリカやヨーロッパの大規模農場で麦の収穫などに使われていた、外国製の大型コンバインが用いられました。
 この外国製の大型コンバインの問題点は大きくて重いことでした。軟らかい干拓地でコンバインが埋まらないようにするため、田面の乾燥を進めるよう営農指導が行われました。しかし、干陸して間もない水田の乾燥は十分に進んでおらず、大型コンバインが埋まって動けなくなることが続出しました。大潟では、農業機械が柔らかい田んぼに埋まって動けなくなることを、動けずもがいている亀に例え「カメになる」といいます。カメになった大型コンバインの救出は困難を極めました。重機やコンバインをつないで、何日もかけて引き上げたこともあったそうです。
 このため、外国製の大型コンバインによる収穫は、刈り幅が4m程度もあるのに1日あたり2ha以下しか収穫できず、効率が悪いものでした。また収穫時には収量の1割の籾が損失してしまいました。これは、現在使われている自脱式コンバインでは考えられない割合です。
 播種から収穫まで、第1次入植者の入植初年度の営農は困難を極めました。昭和43年の平均収量は366kg/10aと、秋田県平均の543kg/haと比べてとても少ないものでしたが、第1次入植者は八郎潟干拓地での収穫を喜び、翌年以降の営農に希望をもったのでした。

カメになったコンバイン (大潟村干拓博物館蔵)
カメになったコンバイン
(大潟村干拓博物館蔵)

(13) 第2次入植者の営農

昭和44年の春には、新たに第2次入植者86名が加わり、営農が始まりました。前年度の営農の結果を踏まえ、水田面積の半分以上を直播き栽培とする営農計画が立てられました。しかし、その年も播種後の低温と強風により発芽や生長は著しく不良であり、約500haもの面積の水田に改植が必要となり、入植者は再び余り苗と田植えのお手伝いさんの確保に東奔西走を余儀なくされたのでした。
 ここに大きな問題が発生しました。手植え栽培の面積拡大に伴い、たくさんの労働者の雇う必要がありました。この労働力は大潟村だけではまかなえず、周辺の市町村に求めたことから、田植えの時期に雇用競争が起こったのでした。そして労働賃金の高騰を招いただけでなく、周辺市町村の営農にも影響を与えたのでした。
最終的に、昭和44年の作付面積1,245haのうち、手植えを行った面積はその84%、1,047haになりました。平均収量は10aあたり459kgと、昭和43年よりは大幅に改善しましたが、秋田県平均の同510kgと比べて低いものでした。また直播きや機械移植栽培よりも手植えのほうが高い収量となりました。経営の安定のためには、今後も手植えによる栽培を選ばざるを得ない状況となったのでした。

(14) 第3次入植者の営農

 昭和45年の春には、さらに第3次入植者175名が加わり、営農が始まりました。作付面積は約2,600haにもなりました。入植者に対しては、できるだけ直播きや機械移植で行うことを指導しましたが、手植え栽培のほうが良い収量であることから、多くの入植者は手植えによる栽培を選択したのでした。昭和45年の作付面積のうち、手植えによる面積は全体の約90%、2,354haにも達したのでした。
 手植えを行うには、田植え時の労働力を確保することが必要です。前年までの労働力確保の混乱を防ぐため、大潟村と周辺市町村との間で協議会が設けられ、雇用の時期や賃金について協議が行われました。その結果、大潟村における田植えは、周辺市町村で田植えが終了した後の5月下旬から6月上旬にかけて行われることとされ、雇用賃金は日給1,200円と定められたのでした。
 5月下旬の田植えの最盛期には、大潟村まで田植えのお手伝いさんを送迎するバスがたくさん往来し、田んぼでは大勢が列をつくり田植えを行う光景がみられました。大潟村の田んぼは、1区画がおよそ140m×90mもあるため、手に持った苗だけでは足りなくなってしまいます。苗をあぜから投げて渡そうとしても、田んぼが広いので届きません。そこで「苗船」に苗を載せ、これを引きながら田植えが行われたのでした。
 田植えに用いる苗の育苗も大きな課題でした。干陸直後の十分に乾燥していないヘドロ土壌では、なかなか均質な苗が得られませんでした。そこで、周辺市町村の農家に育苗を委託する方法がとられました。結果的に、育苗を委託し移植も雇用労働力となり、当初の目指していた大型農業機械による営農は頓挫してしまったのでした。

苗船に苗を載せて手植えが行われました。 (大潟村干拓博物館蔵)
苗船に苗を載せて手植えが行われました。
(大潟村干拓博物館蔵)

(15) 第4次入植者の営農

 昭和46年になると、新たに第4次入植者143名が加わり、営農が始まりました。作付面積は約3,300haに増え、そのうち約3,073ha、全体の約93%が手植えによる栽培でした。栽培品種も、食味の良い品種を導入する必要があり、早生の「レイメイ」「ヨネシロ」とともに、中晩生で食味の良い「トヨニシキ」の栽培が始まりました。
 この頃になると、苗を外部に委託するのをやめ、「ペーパーポット育苗」を行う農家が現れました。ペーパーポットとは、紙でできた折りたたみ式の小さな底なし育苗鉢です。隣どうしの鉢は水溶性糊でのり付けされてたたまれており、これを広げて土を詰め、種をまきます。育苗中に水をまいたりすることにより、水溶性ののりが溶け、個々の鉢が分離します。移植は紙製の鉢ごと行い、鉢は後に土の中で分解されます。苗に土がついており、移植後に根付きやすく初期生育が良好でした。
 しかし、ペーパーポット育苗でも、農作業の機械化は難しいものでした。トラクターの後ろからペーパーポット苗を落下させながら移植するなど、入植者は様々な工夫を試みましたが、トラクターでは軟弱地盤上での走行性に問題があり、なかなか実用化しませんでした。結局、ペーパーポット苗も手植え用の苗となったのでした。

ペーパーポット苗を用い、農作業の機械化が試みられました。 (大潟村干拓博物館蔵)
ペーパーポット苗を用い、農作業の機械化が試みられました。
(大潟村干拓博物館蔵)

(16)田植機の普及

 この頃、農業機械メーカーでは4条式の田植機の開発が行われていました。昭和40年代半ばに歩行型4条式田植機が実用化され、販売が始まると、大潟村の農家はいち早くこの田植機を導入し、田植え作業を行うようになりました。壮観だった手植えの面積は昭和46年をピークに減少し、また直播き栽培もほとんど行われなくなり、田植機を用いた機械移植栽培の流れになりました。
 歩行型4条式田植機の導入は入植者に大きな変化をもたらしました。haあたりの田植え作業の時間は5〜7時間となり、1区画あたり1.25haの圃場について、およそ1日で田植えを終えることができるようになりました。すなわち、耕起や代かき、育苗、苗の運搬作業など、育苗から移植に至るまで、合理的かつ計画的に作業を行うことができるようになったのでした。そして徐々に全面積の水田を田植機で移植するようになりました。雇用に依存せず、自家労力のみで田植えができるようになったのです。
 育苗も、機械移植による面積が増えるにつれ、ビニールハウスが建設され、ここで育苗作業を一貫して行うことができるようになりました。機械移植後の株数や穂数も安定するようになり、その収量は手植え移植と同等か、それ以上の水準に達しました。
 このように、入植初期は直播き栽培の失敗から試行錯誤が続いた営農形態も、歩行型の4条式田植機の出現により雇用労力に依存した農業経営から自家労力主体の農業経営となり、稲作については経営的にも栽培的にも安定したのでした。

歩行型4条式田植機は、大潟村の営農に大きな変化をもたらしました。 (大潟村干拓博物館蔵)
歩行型4条式田植機は、大潟村の営農に大きな変化をもたらしました。
(大潟村干拓博物館蔵)

(17) 自脱式コンバインの普及

 入植当初は直播きの失敗の連続により、品種ごとの作付け面積も作付けの時期も、事前に立てた計画通りに進みませんでした。昭和43年から46年までは、収穫は9月中旬から11月上旬にかけて行われたのでした。
 収穫の時期が広がった要因は、作付の時期の問題だけでなく、大型コンバインの作業能率があがらないことにもありました。外国製の大型コンバインの刈幅はが3〜4mと非常に広いのですが、1日にわずか1.25haの水田1枚を刈ることしかできませんでした。大型コンバインが埋まって動けなくなる「カメ」になってしまうこともあり、作業能率を低下させる原因にもなっていました。
 その一方で、昭和40年代の半ばより、軽量で作業効率の良い自脱型コンバインが各社で開発、販売されるようになりました。大潟村でも、昭和40年代後半より自脱式コンバインを導入する農家が増え、やがて外国製の大型コンバインは麦や大豆などの収穫に使われるようになったのでした。

入植当初、稲の収穫に用いられた外国製の大型コンバイン (大潟村干拓博物館蔵)
入植当初、稲の収穫に用いられた外国製の大型コンバイン(大潟村干拓博物館蔵)

(18)入植後の生活

1. 保育

 入植当初の入植者の家族構成は、夫婦とその子、という家庭が比較的多かったのです。夫婦で営農をするにあたり、乳幼児の保育園の開設が望まれていましたが、昭和43年春の第1次入植者の営農開始時には間に合いませんでした。そこで同年の4月から役場庁舎内に簡易保育所が設けられたのです。このときの乳幼児(2~5歳)は27名で、2名の保母が保育にあたりました。
 翌44年1月には大潟幼稚園が大潟小学校内に設けられ、4・5歳児が幼稚園にうつりました。保育に対しての要望は強く、県の全額補助のもと、「住民の集会の場」「児童の遊び場」「乳幼児の保育の場」としての児童館が建設され、ここで保育が行われるようになったのです。

当初は役場庁舎内で保育が行われました。 (大潟村役場蔵)
当初は役場庁舎内で保育が行われました。
(大潟村役場蔵)

のちに児童館が建設され、児童館で保育が行われるようになりました。 (大潟村役場蔵)
のちに児童館が建設され、児童館で保育が行われるようになりました。
(大潟村役場蔵)

2. 通学

 第1次入植者の入村により、小中学校に通う子供たちは36名になりました。しかし当時はまだ村内に小学校、中学校が建設されていなかったので、今の男鹿市(旧若美町)の野石小学校、潟西中学校にスクールバスで通ったのでした。これは昭和43年11月まで続けられました。昭和43年11月になると、大潟小学校の校舎が完成しました。この校舎を利用して中学校も設けられ、村の子供たちは自分の村の学校に通学することができるようになったのです。

3. 警察

 村発足当時は人口は少なかったのですが、道路が整備されるにつれ車の通行量が急に増えました。また、事業団の工事に係わる人たちも多くなったことから、昭和43年3月に五城目警察署大潟村警察官連絡所が大潟村役場内に設けられ、警察官1名が配置されました。入植がすすみ、人口が増加していくにつれ、警察の業務も多くなりました。そこで昭和48年8月には大潟村警察官派出所と名称が変更になりました。派出所庁舎も翌昭和49年1月に完成しました。なお、現在は駐在所になっています。

建設された派出所。(大潟村干拓博物館蔵)
建設された派出所。(大潟村干拓博物館蔵)

4. 消防・防災

 村が発足した昭和39年、消防の組織はまだありませんでした。昭和40年、当時道路が直接結ばれていた若美町(現男鹿市)と琴丘町(現三種町)との間で、消防について委託契約を結ぶとともに、役場の職員や入植訓練所の職員らで自警団をつくり、火事などの有事に備えていました。
 昭和43年の6月には15名からなる大潟村消防団が結成されました。。以後、入植による人口増加とともに消防団員も増え、装備も充実して現在に至っています。
 昭和48年になると、隣接する男鹿市、天王町(現潟上市)、若美町(現男鹿市)、大潟村で広域消防組合を発足させました。消防署大潟分署も設けられ、防災体制が整ったのです。

5. 医療

 第1次入植者が入植した翌年の昭和43年、住民の健康管理のため、役場庁舎のなかに診療所が設けられました。お医者さんは八郎潟町にある湖東総合病院から1週間に2回やってきたのです。初日の患者の数は6名でした。しかし入植により人口が増えると、診療が忙しくなり、そして設備が不十分になってきました。昭和46年4月には大潟村診療所が完成し、当初は湖東総合病院に診療所の運営を委託していました。昭和49年からは常駐のお医者さんにより診療が始まりました。

完成した大潟村診療所。 (大潟村干拓博物館蔵)
完成した大潟村診療所。(大潟村干拓博物館蔵)

6. 農協と商店街

第1次入植者が村に入植した昭和42年11月、日常生活に必要なものを提供するため、秋田県農業協同組合連合会は大潟村に店舗(スーパーマーケット)を設けました。併せて、農協の事務所と理容院、ガソリンスタンドも設けられました。
しかし、農協の店舗は閉店が夕方5時で早いこと、年末年始等の閉店期間が長いこと、品数が少ないことに加え、お客さんが農家なので、昼と夕方に混雑し、不便な面もありました。また、朝早くから周辺市町村より多くの人たちが行商に来ましたが、行商でも品数や量に限りがありました。
 そこで商店の建設が検討されました。アンケートにより、食料品店、鮮魚店、青果精肉店、食堂、衣料品店、理容院、美容院、雑貨店を配置することになりました。建設は昭和48年度に5戸、昭和49年度に3戸行われ、これにより大潟村の住人が地元で幅広くいろいろな買い物ができるようになったのです。

農協の店舗。 (大潟村干拓博物館蔵)
農協の店舗。(大潟村干拓博物館蔵)

当初の商店街。 (大潟村役場蔵)
当初の商店街。(大潟村役場蔵)

7. 冠婚葬祭

 大潟村は全国からの入植者が集まっています。したがって、日常生活の慣習も異なる場合が多く、冠婚葬祭では慣習の違いが大きくでてしまいます。そこで大潟村では、特に結婚式や告別式は公民館を会場とし、ひとつの方式をつくって進められました。
 大潟村の公民館における結婚式の特徴は、結婚する当人の友人や親戚が中心となり世話人会がつくられ、その世話人会が主催し、婚礼の準備に始まり後かたづけまで行われることです。会費制であるのも大きな特徴でした。その後、公民館では手狭になり、村民センターで結婚式が行われるようになりました。
告別式の場合は入植者の宗派が多岐にわたっているが、自治会の代表や営農グループにより委員会がつくられ、告別式の運営を行われています。告別式は公民館では手狭なことから、村民センターで行われています。

冠婚葬祭の場であった公民館 (大潟村干拓博物館蔵)
冠婚葬祭の場であった公民館(大潟村干拓博物館蔵)