大潟村は昔、湖だった…。

歴史

八郎太郎伝説

 みなさんは「八郎太郎」という名前を聞いたことがありますか?
八郎太郎は、八郎潟の龍神です。大潟村唯一の神社である「大潟神社」には、天照大神と豊受大神とともに、八郎太郎大神が祀られています。その龍神八郎太郎を、大潟村の初代村長である嶋貫隆之助さんはこう述べていました。
「八郎太郎は、八郎潟干拓事業の最高の理解者であり、協力者である。」
大潟村の住民にとってはとてもなじみの深い八郎太郎ですが、実は八郎潟だけでなく、青森・秋田・岩手の北東北3県に、八郎太郎に関する壮大な伝説が分布しています。これらは「めでたしめでたし」で終わるものではありません。八郎太郎の悩みや苦しみ、喜びが、大潟村を始め北東北の各地には連綿と語り継がれているのです。
 ここでは、各地に分布する八郎太郎伝説について、伝説の舞台を含めて紹介します。ぜひ八郎太郎伝説の舞台を訪ね、八郎太郎に思いを馳せてみませんか。ひょっとしたら八郎太郎に会えるかもしれませんよ。

第1話 鹿角の里で、八郎太郎は産声をあげた

 むかしむかしのことです。比内の独鈷(とっこ)1)に了観(りょうかん)というお坊さんがいました。しかしある日、お坊さんらしくない行いをしたため、お寺の近くの沼に住んでいた大蛇のたたりを受けてしまいました。それから間もなく、了観の妻は身ごもりました。子が生まれるとき、天地が激しく鳴り響き、嵐となりました。こうして生まれた子は久内(くない)と名付けられ、後に鹿角の草木(くさぎ)に移住し、その家は代々久内と名乗ったのでした。
 それから長い年月がたったある日のこと、草木の地2)で9代目の久内が生まれました。先祖からの血を受け継いでいるためか、成長すると身の丈6尺あまりの大男になりました。彼はとても力が強く、気立ても優しい若者であり、八郎太郎と呼ばれていました。
 そんなある日、「マダ」という木の皮を剥ぐため、八郎太郎は仲間と3人で十和田の山奥へと入っていきました。

1) 現在の大館市比内独鈷にある大日堂。大蛇は大日堂の裏にある北沼に棲んでいたといわれています。大日堂、北沼ともに現存しています。
2) 現在の鹿角市草木字保田(ぼった)。地元住民が「八郎太郎生誕の地」碑を建立しています。また、近くには、産湯に使われ、八郎太郎が飲んで大きくなったという「桂の井戸」があります。なお、八郎太郎生誕の地にはここ以外にも諸説があります。

鹿角市草木にある「八郎太郎生誕の地」碑
鹿角市草木にある「八郎太郎生誕の地」碑

第2話 八郎太郎は龍に姿を変え、仲間に別れを告げた

 八郎太郎が、仲間3人と十和田の山奥に入って数日が経ちました。その日は八郎太郎が炊事当番でした。水を汲みに沢におりると、おいしそうなイワナが3匹泳いでいました。八郎太郎はおかずにしようと、3匹のイワナを捕まえ、串に刺して焼きました。やがておいしそうな香りが漂い始めました。八郎太郎は我慢できず、自分の分を食べてしまいました。あまりのおいしさに我を忘れ、仲間のイワナを全部食べてしまったのでした。
 まもなく、八郎太郎は喉が渇いてひりひりするようになりました。汲んだ水を飲んでも足りず、沢に行って水を飲み続けました3)。やがて、沢に映った自分の姿を見て、八郎太郎は驚きました。なんと、大きな龍に変わっていたのでした4)。
 戻った仲間は八郎太郎の変わり果てた姿に驚きました。八郎太郎は涙を流し、仲間に別れを告げました。そして沢の流れをせき止め、湖とし、その主となったのでした。こうしてできた湖は十和田湖といいます。

3) 七日七晩飲み続けたとも言われています。
4) 「仲間を置き去りにしない」「食べ物は必ず分かち合う」「収穫は平等に分配する」といった掟を、八郎太郎が破ってしまったためと考えられています。

十和田湖
十和田湖

第3話 諸国を巡った修行僧の南祖坊が、八郎太郎に戦いを挑んだ

 八郎太郎は、美しい十和田湖で暮らしていました。そんなある日のこと、南祖坊という修行僧が十和田湖のほとりにやってきました。南祖坊は南部の出身5)であり、紀州(今の和歌山県)の熊野で修行をしていました。そして権現様から鉄の草鞋(わらじ)を授かり、「これを履いて諸国を修行し、草鞋が切れたところをすみかとせよ」というお告げを受けたのでした。南祖坊は諸国を巡り、十和田湖に着いたそのとき、鉄の草鞋が切れたのでした6)。
 南祖坊は目の前に広がる十和田湖を、権現様からお告げのあった永住の地と考え、喜びました。そのとき、南祖坊の前に八郎太郎が姿を現しました。
「私はこの湖の主の八郎太郎だ。おまえはいったい何者だ!」
「私は南祖坊。熊野権現のお告げに従い今日からこの湖の主となる。」
 こうして、八郎太郎と南祖坊の激しい戦いが始まったのです。

5) 青森県三戸郡南部町の斗賀神社の裏に十和田神社があり、ここが南祖坊生誕の地といわれています。
6)「鉄の草鞋の切れたところ」ではなく、「片方の鉄の草鞋を発見したところ」と記している文献もあります。十和田湖畔には十和田神社があり、その、境内社として熊野神社も設けられ、鉄の草鞋が奉納されています。

十和田神社境内の熊野神社には、鉄の草鞋がたくさん奉納されています。
十和田神社境内の熊野神社には、鉄の草鞋がたくさん奉納されています。

第4話 七日七晩の戦いの末、八郎太郎は敗れ去った

南祖坊は、十和田湖のほとりの岩山に座り、八郎太郎に向けて法華経8巻を取り出しました。そして経文を唱えると、お経を八郎太郎に向けて投げつけたのです。するとそのお経は八龍となり、八郎太郎に挑みかかりました。一方八郎太郎は、自分の住みかである湖を取られてなるものかと、八つの頭をもつ龍に姿を変え、南祖坊に挑みました。静かであった湖は急に荒れ狂い、雷が鳴り響き、山々が鳴動し、それは凄まじい光景でした。この戦いはなかなか決着がつかず、七日七晩続きました。南祖坊は最後の力をふりしぼり、最後の法華経のお経を八郎太郎に向けて投げつけました。すると、経文の一字一字が鋭い剣となり、八郎太郎の体に突き刺さったのでした。とうとう八郎太郎は力尽き、十和田湖を自らの血で真っ赤に染め、体を引きずりながら十和田湖を去ったのでした。
 そして、八郎太郎に勝った南祖坊は、静かに十和田湖へと入っていきました。南祖坊が十和田湖の主となったのでした7)。

7) 十和田湖の主となった南祖坊は、青龍権現として祀られました。十和田湖に向かう道路沿いには「十和田青龍大権現」碑が現在も残っており、かつてはその碑より奥は女人禁制の十和田の神域でした。

十和田湖の御蔵半島は一部が赤く、八郎太郎の流した血の跡だといわれています。
十和田湖の御蔵半島は一部が赤く、八郎太郎の流した血の跡だといわれています。

第5話 八郎太郎は、鹿角の里を追われた

十和田湖を追われた八郎太郎は高台に腰掛け、鹿角の里を見下ろしました。小坂川、大湯川、米代川が合流する雄神(おがみ)と雌神(めがみ)8)の間をせき止めれば、鹿角の盆地は大きな湖となり、ここを安住の地にできると考えたのでした。そこで八郎太郎は毛馬内(けまない)の茂谷(もや)山9)に縄をかけて背負い、川の合流地点をせき止めようとしました。
 この計画に驚いたのは、鹿角の43体の鎮守の神様たちでした。神様は大湯のお宮10)に集まり八郎太郎を追い出すための相談をしました。そして鹿角の花輪地区の鍛冶屋に金槌などをつくらせ、牛で運ばせ11)、八郎太郎がせき止めた場所を壊したのでした。
 鹿角の神様たちの反撃に遭い、住みかを失った八郎太郎は、再び安住の地を求めて米代川沿いに下って行ったのでした。

8) 雄神と雌神の間は峡谷となっています。雄神と雌神は米代川を挟んで向かいあっており、それぞれ祠と御神像があります。
9) 茂谷山には、八郎太郎が縄をかけた跡が残っているといわれています。
10) 神様が集まったお宮を集宮(あつみや)といいます。
11) 牛は運んでいる途中であまりの重さに血を吐いたといいます。その土地を「血牛(ちうし)」といい、現在は「乳牛(ちうし)」の地名となっています。

集宮。大湯の集落の外れの小さな山にあります。
集宮。大湯の集落の外れの小さな山にあります。

第6話 八郎太郎は、七座(ななくら)の天神様と力比べをした

 鹿角を追われた八郎太郎は、米代川沿いに下り、きみまち坂付近で蛇行している米代川をせき止めて湖にし、住み家にしました。それに驚いたのは七座(ななくら)山12)の神様たちでした。そこで、いちばんかしこい天神様が八郎太郎に声をかけました。
「八郎太郎よ、力持ちと聞いているが、私も負けない。大きな石を投げて力比べをしてみないか。」
 八郎太郎は、そばにあった大きな石を投げました。その石は、米代川の中ほどに落ちました。一方天神様は、もっと大きな石を軽々と投げ、それは米代川をはるか越えていきました。驚いている八郎太郎に、天神様はすかさず言いました。
「この川の下流の男鹿半島のほうに、もっと広い場所がある。そこを住み家にしてはどうだ。」
 そこで天神様は、米代川をせき止めた堤防を、たくさんの使いの白ネズミに穴を開けさせました13)。八郎太郎は、その水の勢いに乗って下流へと行ったのでした。

12) 現在の能代市二ツ井町にある、七つの峰をもつ山。各峰には神が鎮座しており、米代川は七座の山をう回するように蛇行している。
13) 喜んだのは猫たちで、白ネズミをつかまえようとしました。そこで天神様は猫にノミをつけないと約束し、猫を繋いでおきました。この地が猫繋で、現在は「ね」が取れて小繋の地名となっています。

八郎太郎が力比べをして投げた石。七座神社の下米代川にあります。
八郎太郎が力比べをして投げた石。七座神社の下米代川にあります。

第7話 鶏が鳴くと同時に大地が割れ、八郎潟が誕生した

 米代川を下った八郎太郎は一夜の宿を求めて歩き回りました。そして天瀬川(現在の三種町天瀬川)で、年老いた心優しい夫婦が宿を提供してくれたのでした。八郎太郎はお爺とお婆に、泊めてくれたことのお礼を述べ、自分が龍であることを伝えたのでした。そして明日の朝、鶏が鳴くと同時に大地が割れ、ここが大きな湖になると老夫婦に言ったのでした。老夫婦は大変驚きながらも、八郎太郎のお話を信じ、鶏が鳴く前に逃げようと荷物をまとめたのでした。
 翌朝、鶏が鳴くと同時に轟音が響き渡り、水が溢れました。八郎太郎の姿は龍になり、そして大地は瞬く間に湖となったのでした。そのとき、八郎太郎は溺れているお婆を発見しました。お婆は裁縫道具を家に忘れ、取りに戻ってしまったのでした。八郎太郎はお婆を助けようと、尾ではじきました。お婆は、天瀬川の反対側の芦崎(あしざき)(現在の三種町芦崎)に飛ばされてしまいました。
 お爺とお婆は助かりましたが、離ればなれになってしまいました。後に、お爺は天瀬川の南の夫殿権現(おどどのごんげん)に、お婆は芦崎の姥御前神社(うばごぜんじんじゃ)に祀られるようになりました。そして、この両地域では鶏を禁忌とし、鶏を飼うことを禁じるだけでなく、鶏や卵を一切食べませんでした。
 こうして、現在の位置に八郎潟が誕生し、八郎太郎はここを永住の地としたのでした。

夫殿権現
夫殿権現

姥御前神社
姥御前神社

第8話 八郎太郎は、一の目潟の女神に逢いに行こうとした

 八郎潟を安住の地とした八郎太郎でしたが、八郎潟は冬に凍る湖でした。冬も凍らない湖はないかとあちこち訪ね、男鹿の北浦に冬も凍らない一の目潟があることを聞いたのでした。そして、一の目潟を冬の間の棲み家にしようと考えたのでした。
 困ったのは一の目潟の女神様でした。自分一人では八郎太郎にはかないません。そこで、京都出身の弓の名手であった武内弥五郎真康(たけのうちやごろうまさやす)に八郎太郎を追い払ってくれるように頼んだのです。さらに女神様は真康に、八郎太郎を追い払うことができるのであれば、雨乞いのお札を授ける約束をしたのでした。真康は女神様に、八郎太郎を追い払うにはねらいをどこに定めたらよいか尋ねました。女神は、八郎太郎は寒風山の上から黒雲に乗って現れるので、それを目当てに矢を放てば良いと答えました。
 真康は先祖伝来の弓矢を携え、一の目潟のほとりの三笠の松に姿を隠し、八郎太郎が現れるのを待ちました。そして黒雲が現れたそのとき、武内真康は矢を放ちました。矢は八郎太郎に当たりました。怒った八郎太郎は体から矢を抜き、「この恨みは子孫七代まで必ず片眼にする」といいながら矢を真康めがけて投げ返したのです。矢は真康の左目にあたり、以後、七代目まで左目が不自由だったといわれています。

一の目潟を見下ろす高台にある三笠の松跡。武内弥五郎真康はここから八郎太郎めがけて矢を放ったといわれている。
一の目潟を見下ろす高台にある三笠の松跡。武内弥五郎真康はここから八郎太郎めがけて矢を放ったといわれている。

第9話 辰子は、永遠の美しさを求め、大蔵(おおくら)観音に願をかけた。

 八郎太郎が八郎潟で暮らしていた頃、西木村(現在の仙北市)神成沢(かんなりざわ)16)には、辰子という美しい女性がいました。辰子は永遠の美しさを手に入れようと、神成沢と田沢湖との間の山の中腹にある大蔵(おおくら)観音17)に毎晩願掛けをしました。そして成就の夜、観音様から田沢湖のそばの泉を飲めば、永遠の美しさを得られるというお告げを受けました。辰子は泉を探し求め、ついに発見し、水をすくって飲んだのでした18)。すると辰子は、龍の姿に変わってしまいました。
 母は戻らない辰子を何日も探しました。ついに湖のほとりで母は龍になった辰子と会ったのでした。母は泣く泣く辰子と別れたのでした。後に、辰子は田沢湖の主になりました。

16) 辰子姫生誕地が神成沢にあります。
17) 辰子が願をかけた大蔵観音は老朽化により山の麓に移され、かつての跡には祠があります。
18)永遠の美しさを得ようと訪れた泉は、現在は「潟頭(かたがしら)の霊泉」といい、田沢湖北部の御座石神社(ござのいしじんじゃ)のそばにあります。なお、御座石神社には下半身が龍の辰子像があります。

田沢湖。湖岸には舟越保武作のたつこ像(ブロンズ)が立つ。
田沢湖。湖岸には舟越保武作のたつこ像(ブロンズ)が立つ。

第10話 八郎太郎は身だしなみを整え、辰子姫に会いに田沢湖へ向かった。

 ある日のこと、八郎太郎は、八郎潟にやってきた渡り鳥から、田沢湖に辰子という美しい娘がいることを聞きました。そして冬も押し迫ったある日、ついに辰子に会いに行こうと決心したのでした。八郎太郎は潟のほとり19)で身だしなみを整えた後、新関(潟上市)、久保田(秋田市)、船沢(大仙市)、西明寺(仙北市)などで一夜の宿を求めながら、川伝いに田沢湖へと向かったのでした。
 大仙市や仙北市のある宿では、泊めたお礼にと、八郎太郎は薬のつくりかたを宿の主人に授けてくれました。潟上市や仙北市のある宿では、八郎太郎の寝ている姿を、その家のおばあさんが見てしまったため、後に滅びてしまいました。

19) 潟上市天王塩口には、八郎太郎が身だしなみを整えたという「足洗の井戸」があります。

足洗の井戸。潟上市の文化財に指定されています。
足洗の井戸。潟上市の文化財に指定されています。

県南には、八郎太郎が泊まったと伝えられている「八郎の宿」があります。
県南には、八郎太郎が泊まったと伝えられている「八郎の宿」があります。

第11話 八郎太郎は、辰子がいる田沢湖に入っていった

 八郎潟を発った八郎太郎は、辰子姫に逢うために川沿いに一夜の宿を求めながら田沢湖に向かいました。そして桧木内川から潟尻川を経て、霜月の9日(旧暦の11月9日)に、現在の潟尻地区から田沢湖に入っていきました。辰子姫は八郎太郎の来訪を喜び、想いを受け入れたのでした。
それ以来、八郎太郎は冬になるたびに田沢湖を訪れ、辰子と共に暮らすようになりました。そのため、主の八郎太郎がいない八郎潟は冬に凍るようになり、八郎太郎と辰子姫の二龍神が暮らす田沢湖は、逆に冬も凍ることなくますます深くなった20)といわれています。
八郎太郎が田沢湖に入った場所には現在、浮木神社が建立されています。なお、かつて潟尻の人々は、八郎太郎が田沢湖に入る音を聞いたり姿を見たりしないようにと、その日は一晩中賑やかに飲んで騒いだといわれています。

20) 田沢湖は日本一深い湖で、水深が423mもあります。

浮木神社。湖にせり出すように建立されています。田沢湖に流れついた浮木を祀ったといわれています。
浮木神社。
湖にせり出すように建立されています。
田沢湖に流れついた浮木を祀ったといわれています。