村長のコラム

サンフランシスコ平和条約と八郎潟干拓

12月29日(木) 更新

サンフランシスコ平和条約と八郎潟干拓の画像

 12月28日、安倍総理が真珠湾を慰霊に訪問し、オバマ大統領とともに献花したニュースが世界で大きく報じられました。太平洋戦争の口火を切ったのが真珠湾攻撃です。
 それに先立つ、12月25日に地元の秋田魁新報にサンフランシスコ平和条約と八郎潟干拓についての記事が一面で大きく報じられ、奇しくも戦争の始まりと終わりに関する報道が秋田ではありました。
 魁新報の記事によりますと、米国は平和条約締結に当たり「日本に賠償は求めない」方針で、できるだけ多くの戦勝国の参加をさせようとしていました。そうしたなか、インドネシアの植民地を日本に占領されたオランダが反発。米国側から吉田首相に対し「オランダの技術協力で行うプロジェクトは無いか」との打診があったといいます。吉田首相はオランダの協力で行う大規模事業を考えるように建設相に指示。当時26歳の下川辺淳職員が「建設省には無いが、農林省にはある。秋田の八郎潟干拓です」と発案した。上司に命じられ、一人で吉田首相宅へ説明に出向き、聞いた首相は喜び、「分かった、農相に話そう」と答えたそうです。
 下川辺さんはその後、国土事務次官、国土審議会会長を歴任され、今年8月に92歳で亡くなられました。

 戦後の混乱のなか、日本政府は昭和21年に食糧自給計画を立て国営干拓事業を閣議決定し、児島湾、印旛沼、有明海などの干拓に着手しました。しかし、規模が大きい八郎潟は着工されずにいたところ、昭和26年のサンフランシスコ平和条約締結を機に干拓は進むことになりました。
 昭和27年には食糧増産5カ年計画を策定し、同年7月1日秋田市に農林省八郎潟干拓調査事務所を設けました。昭和29年3月オランダのデフォルト大学のヤンセン教授が視察に訪れ、その後ヤンセンレポートが提出され、オランダからの技術支援と世界銀行からの融資を受けて干拓工事は進みます。
 そして、昭和39年の干陸によって大潟村は誕生します。干陸式にはヤンセン教授も招かれました。
 同年は、平和の象徴である東京オリンピック開催の年であります。平和条約締結から13年、オリンピック開催と八郎潟干拓による大潟村誕生が同じ年に行われたことは感慨深いものがあります。
 八郎潟干拓は、戦後の食糧増産や次三男対策などが目的とされていましたが、誕生の裏には平和のための干拓でもあったと言えます。

 下川辺事務次官の当時の部下であった吉村彰氏は元農水省の職員として、オランダのデフォルト工科大学に派遣され干拓工事に関わりました。吉村氏には、平成22年11月に大潟村干拓博物館の10周年記念事業でご講演を頂き、その中で八郎潟干拓とサンフランシスコ平和条約との関連についても話されていました。今回、改めて新聞の記事として報じられたことは貴重なことであります。

 大潟村は農業による食料生産基地としての使命ばかりでは無く、農業を通じて平和貢献することも求められていると思います。今までも、アフリカ諸国からの稲作研修の受け入れや南米への村青年の派遣など交流を図ってきました。今後は、「農業と食料生産を通じた平和貢献」という視点を新たに加え、村づくりを進めて行きたいと思います。

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