コンテンツ番号:37 更新日:2022年11月17日

新生の大地 干拓の歴史・大潟村の成立

写真:干拓前
かつて日本第2の湖だった八郎湖
写真:干拓後
新生の大地 大潟村

20年におよぶ20世紀最大の事業「八郎潟干拓」

北緯40度、東経140度の交会点を中心にしたかつての八郎潟は、東西12km・南北27km・周囲82km・総面積2万2,024ha、琵琶湖につぐ日本第2の広さを誇る湖であり、約70種を超える魚介類の宝庫でした。1954年(昭和29)にオランダのヤンセン教授と フォルカー技師の来日を契機として同年の世界銀行および翌'55年の国際連合食糧農業機構FAO調査団が調査した結果、干拓事業の有用性が内外に認められました。
20年におよぶ歳月と総事業費約852億円の巨費を投じた世紀の大事業は、1977年(昭和52)3月に完了し、八郎潟の湖底は1万7,203haの新生の大地に生まれ変わりました。

八郎潟干拓により、湖底から生まれ変わった新生の大地に村がつくられることとなり、村名は全国から募集され、将来に大きな理想と躍進をこめて「大潟村」と命名されました。
こうして村は、1964年(昭和39)10月1日に秋田県で第69番目の自治体として名乗りをあげました。6世帯わずか14人の人口でのスタートでした。全国各地からの入植希望者のなかから選抜された入植者は、干拓の目的である「日本農業のモデルとなるような生産および所得水準の高い農業経営を確立し、豊かで住みよい近代的な農村社会をつくる」ことを担ったパイオニアといえます。

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