11月4日(土)、記念碑の除幕式において
第二次入植は入植訓練終了後、昭和43年11月に86名の入植者とその家族が順次入植され、翌年1月29日に入村式が行われました。
私の父も入植者として、11月5日に家族とともに旧二ツ井町から入植しました。同じ秋田県内とは云え、全く環境の違う「干拓の村」であり新天地そのものでした。
一次入植の赤い屋根に続いて、二次入植は黄色い屋根が東で赤い屋根が西に別れていました。当時は、まだ防風林も植えられたばかりで小さく、強い風が吹くと砂嵐に冬は吹雪となり生活面での苦労も多くありました。学校は、旧小学校に幼小中が一緒に学び通っていました。全国からの転校生同士で学校ではできるだけ標準語で話し、クラスの人数が少ない中でも活気がありました。
農業では、結成したグループで営農をスタートさせますが、大型トラクターによる軟弱地盤の苦労や直播栽培の失敗、移植栽培に切り替えて県内外各地から苗や田植え人夫の確保など春作業から苦労の連続でありました。さらに、収穫作業は外国製大型コンバインでも軟弱地盤に苦労しました。それでも、グループには明るさがあったように思います。
村づくりでは、昭和44年に婦人会が結成され、生活改善や入植者夫人同士のコミュニケーションに大きな役割を果たしました。同年、公民館も完成し展望台からは広い干拓地や色別の屋根の様子が一望できました。
昭和45年より減反政策が始まり、その後様々な争いが起こりましたが、平成元年の全面水田認知によって落ち着きを取り戻します。そして、平成22年から始まった戸別所得補償政策により生産調整参加者は大幅に増え、平成28年には達成率で100%を超えました。今後も同じ方向で農業政策を進めて行けると思います。
現在、第二次入植の皆様が開拓者精神を持って、多くの困難を乗り越え築いた豊かな大潟村があります。今後、開拓者精神を次の世代に繋いで村づくりを進めてまいります。
皆様の益々のご健勝とご多幸を心からご祈念申し上げます。